雪女





赤ん坊の泣き声が、響く。

目の前に立ち上がった女の、白い顔。 その赤い目が揺らぐ。


戸板が吹き飛ばされ、家の中に吹雪が舞い込み、轟々と渦を巻く。
囲炉裏の火が、傾いた鍋の湯に、白い煙をあげていた。

ばたばたと、揺らぐ着物の袖が、裾が、渦巻く風に躍る長い髪が、
淡く光るように、白く変わっていく。


腰を抜かすように座り込む男を見下ろし、女は低く、強く、静かに呟いた。

「誰にも話すなと・・言ったはずだ。」



男は、ずっと、忘れていた。
昔、吹雪の山小屋で起こった恐ろしい出来事を、忘れていた。

美しい妻を持ち、かわいい子を授かり、毎日が幸せだったから
もう、夢の中の出来事のように、薄れていた記憶だった。

あの時の、記憶がよみがえり、体中が凍えだした。


父親と山に入り、吹雪の為に、山小屋で朝を待つ事になった、あの夜。
莚(むしろ)にくるまり、眠っていると、山小屋の戸を開け、入ってきた白い女。

小屋の中に、白く舞う雪を供に入り込み、ゆっくりと近づいてきて、その息で・・
父親を、凍らせた。


・・・・・・・・・・・・・雪女・・・。

体は動かず、次は自分だと思った。
近づいてくる白い顔、赤い目。 恐ろしかったが、なぜか美しいと思った。
そのとき、間近にきた赤い目が揺らぎ、無表情な顔が、ふと、変わった。


赤ん坊が泣き出した、今と同じ顔だった。 無表情だが、赤い目が戸惑う。

(おまえは、まだ若い。里へ帰れ。だが誰ぞに話したら命はないぞ)



赤ん坊は、泣き続ける。
雪女は、ただ、男を見下ろす。
つめたく、うつくしい白い顔。
今の、今まで、囲炉裏の側で、つくろいものをしていた。いとしい妻。

「おまえの顔は、あのときの、雪女の顔に似ている」
雪山での約束を忘れて、秘密を話してしまった男は、失うものを理解した。



「なぜ・・・」
やっとの思いで、口にした。男の声は、掠れていた。


なぜ、山小屋で父親と一緒に殺さなかった。
なぜ、その翌年の吹雪の夜、自分の家を訪ねてきた。
なぜ、偶然を装い、自分に近づいた。


女の無表情な顔が、うっすらと、笑ったように感じた。

「なぜ・・・・だろうね・・・・・」

泣き止まぬ赤ん坊の声を、聞いているのだろうか・・・・
女は少し、顔を傾け、目を細める。


「一言でも、話したら・・殺してやろうと思っていたが・・・・・・・」
女の声は、低く響き、どこから聞こえてくるのか、分からないほど澄んでいた。

「帰ろうかね・・・・・。」


そう呟くと、ふいと横を向き、暗い吹雪の夜へ歩き出す。
男は我に帰って、がばと両手をついて起き上がる。

「待ってくれ!!」


泣き続ける赤ん坊を、あわてて掻き抱き、背中を向ける女を追う。

倒れた戸板の上に立ち、女は振り返る。白い髪が舞い上がる。
「・・・わからないのかい?」

男は覚悟を決めて、女に言葉を投げる。
「わからないと思うか。一緒にはいられない。お前と俺は、異質なものだ・・だが!」


あの、吹雪の山。
自分の聖域に入り込んだ、異質なものを拒絶に来た、もののけの女
なぜ、女は自分を殺さなかった。
なぜ、自分は恐怖を感じながらも、同じ顔の女に惹かれた・・。


そう・・人間とは、生きる場所も、時もちがう・・・・だが。




「それでも、お前は、来たのではないのか。」

男を見る。女の白い顔が吹雪の夜に、淡く映る。


静かになりはじめた赤ん坊を抱きしめ、もう一度、言う。
「それでも・・俺のところに、来たのではないのか。」


吹雪が、少し、和らいだ気がした。
舞い上がる女の白い髪が、静かに落ち着きはじめる。
雪が・・・。淡い光のように夜空から降る


女は、静かに男を見つめながら、つめたく、白い顔を、少し和らげた。
雪に、消えていく。


待ってくれ・・・と、言う言葉を、男は飲み込んだ。


降りつづく、雪を肩に積もらせながら、
男は、消えた女を追うように、夜雪を見つめる。

その腕には、静かに眠る、赤ん坊がいた。